正論を振りかざすだけで行動しない人は、なぜプロジェクトで煙たがられるのか

正論を振りかざすだけで行動しない人は、なぜプロジェクトで煙たがられるのか

プロジェクトの中で、正しいことを言っているはずなのに、なぜか周囲から煙たがられる人がいます。

「それは本来おかしいです」
「筋が通っていません」
「ルール上はこうあるべきです」
「そもそも、その進め方は間違っています」

言っていること自体は、間違っていない。 むしろ、正論としては正しい。

それでも、現場では歓迎されないことがあります。

なぜなら、プロジェクトで求められているのは、単に正しいことを言う人ではなく、 現実を少しでも前に進める人だからです。

正論が悪いわけではない

まず前提として、正論そのものが悪いわけではありません。

むしろ、正論は必要です。 筋の通らない進め方、曖昧な責任、場当たり的な判断、目的を見失った作業。 そういったものに対して、「それはおかしい」と言える人は、本来とても重要です。

ただし問題は、その正論が何のために使われているかです。

場を良くするためなのか。
誰かの苦しみを減らすためなのか。
プロジェクトを前に進めるためなのか。
それとも、自分の正しさを守るためなのか。

ここに大きな違いがあります。

正論が場を前に進めるために使われるなら、それは力になります。 しかし、正論が自分の立場を守るためだけに使われると、周囲からは批評や評論のように見えてしまいます。

正論だけの人が煙たがられる理由

プロジェクトでは、常にきれいな正解があるわけではありません。

時間が足りない。
人が足りない。
情報が足りない。
関係者の温度感も違う。
上位方針と現場実態がズレている。

そのような中で、現場は何とか落としどころを探しながら進めています。

そこに対して、正論だけを投げられると、周囲はこう感じます。

「それは分かる」
「でも、今それを言うだけで何が進むのか」
「では、あなたは何を引き受けるのか」

正論は、行動とセットになって初めて意味を持ちます。

課題を指摘するなら、代替案を出す。
リスクを言うなら、どう下げるかを考える。
筋が悪いと言うなら、現実的な進め方を示す。
責任が曖昧だと言うなら、判断ポイントを整理する。

ここまで降りてこない正論は、現場から見ると「ただの批評」に見えてしまいます。

仏教的に見ると、大悲と方便が足りない

この構造は、仏教の言葉で見ると分かりやすいかもしれません。

正論だけを振りかざして行動しない人には、大悲方便が足りないように見えます。

大悲とは、相手や場の苦しみを見て、それを少しでも減らそうとする心です。

方便とは、相手や状況に合わせて、伝え方や進め方を変える知恵です。

正論だけの人は、「何が正しいか」は見ています。 しかし、「誰が困っているのか」「何が詰まっているのか」「どうすれば少しでも動くのか」までは見えていないことがあります。

つまり、正しさはある。 でも、相手の苦が見えていない。

論理はある。 でも、現実に届く形に変換できていない。

だから、言葉は正しくても、場を救うものにならないのです。

大悲がない正論は、相手の苦を見ていない

大悲がある人は、正論を言う前に、まず場の苦を見ます。

現場が混乱している。
判断者が決めきれない。
メンバーが疲弊している。
顧客が不安になっている。
誰か一人に責任が寄りすぎている。

そのような苦を見たうえで、「今この場で何を言えば、少しでも楽になるか」を考えます。

一方で、正論だけの人は、場の苦よりも、自分の論理の正しさを優先してしまうことがあります。

そのため、本人としては正しいことを言っているつもりでも、周囲からはこう見えます。

「今ほしいのは、それを言う人ではなく、前に進める人なんだけど」

ここにズレがあります。

方便がない正論は、現実に届かない

方便がある人は、正論をそのまま投げません。

たとえば、「それは間違っています」と言う代わりに、こう言います。

「このまま進めると、あとで手戻りが出そうです。最低限ここだけ確認してから進めませんか」

「本来はこうあるべきです」と言う代わりに、こう言います。

「理想形はこうですが、今の状況ならまずここまでで十分だと思います」

「誰が責任を持つんですか」と責める代わりに、こう言います。

「ここが曖昧なままだと止まりそうなので、いったん判断ポイントだけ整理します」

正論を、相手が受け取れる形に変える。 現実が動く形に変える。

これが方便です。

正論だけの人には、この変換がありません。 だから、言葉は正しくても、場には痛く刺さるだけになってしまいます。

では、その人自身は何に苦しんでいるのか

ただし、ここで大切なのは、正論だけの人を単純に悪者にしないことです。

その人にも、その人なりの苦しみがあるはずです。

おそらく一つは、間違うことへの恐れです。

行動すると、結果が出ます。 結果が出ると、評価されます。 評価されると、自分の判断ミスや未熟さが見えてしまいます。

だから、行動するよりも、正論を言う側に立つ。

正論を言っている限り、自分は安全圏にいられます。 間違っているのは自分ではなく、現場や組織や進め方の側だと言えるからです。

これは本人の中では、

間違いたくない。
責任を負いたくない。
自分の無力さを見たくない。

という苦なのかもしれません。

正しさにすがらないと自分を保てない苦

もう一つは、正しさにすがらないと自分を保てない苦です。

プロジェクトは、常に矛盾だらけです。 理想通りには進みません。 完璧な情報もありません。 全員が納得する判断も、なかなかありません。

その中で、六十点でも前に進める判断が必要になります。

しかし、正論型の人は、この曖昧さに耐えることが苦手なのかもしれません。

だから、「本来はこうあるべきです」「筋が通っていません」「ルール上はこうです」と言うことで、自分の立ち位置を守ります。

正論の側に立てば、自分は汚れずに済みます。 現実の泥臭さに巻き込まれずに済みます。

でも、プロジェクトはその泥臭さの中で進んでいきます。

だから、正論の側に立ち続ける人と、現実を動かそうとする人の間には、どうしても距離が生まれてしまいます。

本当の苦は、現実に触れる怖さかもしれない

さらに深く見ると、その人の苦は、現実に触れる怖さかもしれません。

正論を言うだけなら、現実に巻き込まれません。

しかし、実際に動くとなると、関係者と調整しなければなりません。 反対意見を受け止めなければなりません。 失敗する可能性もあります。 自分の判断に責任を持たなければなりません。

行動するとは、現実の摩擦を引き受けることです。

その摩擦に耐える力がまだ弱い人は、正論を盾にしてしまうことがあります。

本人の内側を言葉にするなら、こうかもしれません。

自分は正しくありたい。
でも、現実を動かす責任は負いたくない。
失敗もしたくない。
自分の無力さも見たくない。
だから、正論の側に立って安全でいたい。

このように考えると、その人は単に怠けているのではなく、恐れているのかもしれません。

正論は、刃物にもメスにもなる

正論は、扱い方によって刃物にもメスにもなります。

相手を切るために使えば、刃物になります。 場の間違いを責めるために使えば、人を萎縮させます。 自分の正しさを証明するために使えば、周囲との距離を広げます。

しかし、大悲と方便があれば、正論はメスになります。

問題の本質を切り分ける。
混乱した状況を整理する。
誰かに偏った負荷を取り除く。
プロジェクトが前に進む道筋を作る。

同じ正論でも、そこに相手の苦を見ようとする心と、現実に届く形に変える知恵があるかどうかで、まったく意味が変わります。

プロジェクトで必要なのは、正しい人ではなく、前に進める人

プロジェクトにおいて、正しさは必要です。

しかし、正しさだけでは足りません。

正しさを使って、何をするのか。 誰の苦を減らすのか。 どの現実を動かすのか。 自分は何を引き受けるのか。

そこまで考えて初めて、正論は価値になります。

正論を言うだけで行動しない人が煙たがられるのは、正しいからではありません。

その正しさが、場を救っていないからです。

その正しさが、誰かの負担を減らしていないからです。

その正しさが、現実を前に進めていないからです。

まとめ

正論を振りかざすだけで行動しない人には、本人なりの苦があるのかもしれません。

間違いたくない。
責任を負いたくない。
曖昧な現実に巻き込まれたくない。
自分の無力さを見たくない。
正しくない自分では、存在価値がないように感じている。

だから、正論にすがる。

しかし、プロジェクトで求められるのは、正論を言う人ではなく、正論を使って現実を動かす人です。

正論は大切です。 ただし、それは大悲と方便を伴って初めて、場を救う力になります。

相手の苦を見て、現実に届く形に変える。 そして、自分も何かを引き受ける。

正論を刃物にするのか。 それとも、メスにするのか。

その違いが、プロジェクトの中で信頼される人と、煙たがられる人を分けるのだと思います。

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